コロナ下でも無事に閉幕した「第96回国風盆栽展」 
数々の名樹が一堂に揃う祭典は、その頂点の作品数点に“国風賞“の栄冠が与えられます。

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私達半世紀近く盆栽界にいる者達には、古来より名樹として名高い真柏が、
この国風賞を受賞された事は、選考審査に携わる方々の審美に対する良心を称えるべき事と喜んでいます。

さて、今回は数多くの真柏が海外の愛好家の方々より出品され、どれもが樹形素晴らしく、ダイナミックな存在感を会場に示していました。

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それらの樹を出品された方より「国風賞の真柏はどこが良いのか?よくわからない」と言う質問を受けました。
なるほど質問の通り、多くの皆さんが、国風賞の真柏に対して“この樹がここにある真柏群の中で一番?“と思われたでしょう。

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幹太く大型で、捻転する舎利芸の圧倒的な姿を持つ真柏が多数出品される中で、どちらかと言えば大人しいこの樹が何故栄えある大賞なのか?

私なりに想う意味をお伝えします。
造形という意味からすれば、今回の国風賞を凌駕する真柏は複数あったと思います。
別の言い方をすれば“もし、この樹達がここから年月を重ねれば“と想うものばかりでした。
日本の盆栽家達が最終的に求める盆栽の美と言う要素には、人が寄り添って過ごした年月、
鉢の中でどれ程の歳月を経た事で顕れる“表情“を重んじるものです。
盆栽は、人と自然が寄り添い、語らい、共に過ごしながら、「刻」と言う至高の導きが、真の美しさを創出してくれるものです。
その中には、表面的な“綺麗さ“を超えた、“人為では得られないもの“、
“自然が創り上げた“畏れ”にも似た、静かな厳しさが存在した樹“が、眼前に顕れた時、
ある意味の醜さを含めて初めて到達する“古雅“や“古感“、その総合的な美が、“美しい“と言う表現になるのです。

例えれば、若く演技も上手く顔立ちも綺麗な役者、その役者が歳を重ね苦難の人生を歩み演技に自然に“静かな重厚さ“を出すようになる。
皆さんはどちらが名優と思いますか?

学問優秀で眉目秀麗な若き禅僧。
人生を重ねて身を細めて、それでもすべてに達観して静かに佇む老僧。
どちらが名僧でしょうか?

盆栽は本来は、点数制で評価するものではありません。
しかし、展覧会では、大賞を選考するにあたり、その方式を行います。
日本の盆栽家達が、何よりも大切にするのは、この「刻を重ねた雅格」です。

日本盆栽作家の頂点、木村正彦先生に、この点を伺ったところ、
「私の作品は、幹を曲げ、根をたたみ、舎利を削り、まさにその樹が気の遠くなる歳月の中で受ける天災にも似た厳しい刻を一瞬で与えているのです。
その姿を評価してくださる事は、嬉しいですが、樹が最終的に名樹としての佇まいを醸し出すのは、
ここから日々の雨風を受け、四季を繰り返し、創出から四半世紀以上を経た後でしょう。
その時は、私が“創った“と言う人間の業にも似た、自然界には存在しないあってはならない“醜悪さ“が消えているでしょう」との弁。

盆栽は“輪廻“を繰り返すものだと思います。
創出から完成へ、そこから歳月という河に磨かれる玉のようなものです。
玉と盆栽の違いは、“生き続けている“事です。玉のように至高の完成を見られるのは一瞬です。
人が悟得の境地に近づけば、老齢となり生涯を全うする様に、盆栽が老成した姿をそのままに維持は出来ません。
また新たに創り直しをしなければなりません。
しかし、それは無からではありません。
一度老成して見事な姿を経たからこそ、次なる姿が深く誕生するのです。

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海外の皆さんが出品下さった真柏達は、“未来の名樹“として、ここからの老成を楽しみたい逸樹なのです。