【静寂の中に感じる「仏性」】
数々の名樹を揃えた『慶雲庵・大徳寺展』も終わり、すべての盆栽が搬出されました。
本来、来春の3月下旬まで、公開されずに盆栽達が届くのを待つ庭。
残された石柱立ち並ぶ庭は、静寂の刻となりました。

展示されていた盆栽達がある時は、美しい庭の管理、盆栽の健康状態、そして切れ目なく訪れる来庭者の応対に追われて気がつきませんでしたが、
こうして生きとし生ける盆栽達が退場した今、ここにあった“彼ら“がどのような存在であったか?深く思うものがよぎりました。
先日、市内九条にある「東寺」正確には教王護国寺、空海が立てたこの名刹には「立体曼荼羅」と呼ばれる往時の仏教彫刻の名作が、
まるで大きな絵に描かれた「曼荼羅図」そのもののように、各種の仏像が荘厳な伽藍の中に鎮座していました。

出典: https://toji.or.jp/smp/mandala/
圧倒的なその存在感は、初めて見る私も感動以外ありませんでした。主が去った盆栽庭園。
静寂の深夜、ひとりでこの庭に佇んだ時、庭内の石柱群を見て、“あの仏像群と同じだ“と感じるものがありました。
庭内28の石柱、そこにあった樹々は、私にとってまさに“生きた仏達“だったのです。
盆栽は何も語りません。

人に命のすべてを委ねて、生きる為に自身の枝や半身を枯らし、生きゆくことの為に姿を変えていきます。
私には、彼らが仏の化身に見えてくるのです。私などよりも、ずっとずっと気高い、“空なる世界“に生きる仏に見えるのです。
仏性という言葉があります。
解釈は様々ですが、そのひとつに「すべての生き物には仏となる基が宿っている」とあります。
また、生きるものすべてが仏であると言う捉え方もあります。

私は仏教学はわかりませんが、盆栽達にはおのずと仏そのものがあると思いたいのです。
人の業や無知で、枝を切られ、幹を折られ、それでも刻をかけて“自ずと然り“つまり自然に生きていく。
私は盆栽の究極の世界観は、その仏性にあり、それと共鳴できる自分を得ることではないかと、今回の展覧で思ったのです。
まだまだ、感覚的にそう思っただけで、きちんとした文論には出来ません。
でも、私がやりたい“盆栽とは何なのか?“と言う命題の鍵が見つかったように思います。
来春3月、この庭には私の手掛けた盆栽達が立ち並びます。
彼らと日々対峙する事で、「盆栽と仏性」と言う世界観に少しずつ近づけたらと思います。
今も大徳寺には深夜の静寂の中、僧堂から読経や鐘の音が聴こえます。
ここは人にとっても、盆栽達にとっても、聖地なのかもしれません。

圧倒的なその存在感は、初めて見る私も感動以外ありませんでした。主が去った盆栽庭園。
静寂の深夜、ひとりでこの庭に佇んだ時、庭内の石柱群を見て、“あの仏像群と同じだ“と感じるものがありました。
庭内28の石柱、そこにあった樹々は、私にとってまさに“生きた仏達“だったのです。
盆栽は何も語りません。

人に命のすべてを委ねて、生きる為に自身の枝や半身を枯らし、生きゆくことの為に姿を変えていきます。
私には、彼らが仏の化身に見えてくるのです。私などよりも、ずっとずっと気高い、“空なる世界“に生きる仏に見えるのです。
仏性という言葉があります。
解釈は様々ですが、そのひとつに「すべての生き物には仏となる基が宿っている」とあります。
また、生きるものすべてが仏であると言う捉え方もあります。

私は仏教学はわかりませんが、盆栽達にはおのずと仏そのものがあると思いたいのです。
人の業や無知で、枝を切られ、幹を折られ、それでも刻をかけて“自ずと然り“つまり自然に生きていく。
私は盆栽の究極の世界観は、その仏性にあり、それと共鳴できる自分を得ることではないかと、今回の展覧で思ったのです。
まだまだ、感覚的にそう思っただけで、きちんとした文論には出来ません。
でも、私がやりたい“盆栽とは何なのか?“と言う命題の鍵が見つかったように思います。
来春3月、この庭には私の手掛けた盆栽達が立ち並びます。
彼らと日々対峙する事で、「盆栽と仏性」と言う世界観に少しずつ近づけたらと思います。
今も大徳寺には深夜の静寂の中、僧堂から読経や鐘の音が聴こえます。
ここは人にとっても、盆栽達にとっても、聖地なのかもしれません。
