【作風に求める盆栽への希求】

大徳寺で行われた『慶雲庵・大徳寺特別展』で、30年来の交流深い鈴木伸二氏と長い刻を共にする機会となりました。
お互いに、財団の大切な盆栽を預かる中、ここに選抜群を飾る事になり、庭内で日々盆栽達を見ている内に、思うものがありました。


鈴木伸二氏が手掛けて管理されている盆栽達は、樹の培養状態、完璧と言える程の枝先まで手入れの行届いた姿、技術的にも私より遥かに優れていると思います。

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方や、私が手掛ける樹達は、私の「盆栽観」と言うものを反映してか、時間と鋏で自然に仕上げてゆく感じで、互いの作風的な違いを感じます。

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お互いに歩いて来た道のりこそ違っても、四十数年、盆栽を人生の隣において来た道。
樹も共に生きる人によって、顕す表情が違うものなのだと痛感しました。


ただ、還暦を過ぎてこれからこの大徳寺と言う、歴史ある名刹の中に、盆栽庭園を預かる事になった身として感じるのは、
“これが1番正しい盆栽だ“と言うようなものは無いんだ!と思うことです。
絵画や音楽の世界でも、様々なジャンルがあります。ダビンチのようなルネサンスの世界、
琳派のジャパンモダンの美、ピカソに代表されるキュービズムや抽象的な美、
音楽もクラッシックから流行歌謡、アニメソング、世界に氾濫する“感性“と言う美意識は、人によって異なります。
盆栽も同じく、小品盆栽の愛らしさから、山採り大型古木の美まで、そのすべてが盆栽美です。
松柏・雑木・花物・皐月・山野草・その中にも、私と鈴木伸二氏の違いのように、微妙な捉え方の個性があります。

40代の血気盛んな頃は、“盆栽はこうでなければダメだ“と言うような自身の頑なな想いもありました。
しかし今、1番大切に思うのは、“何が良いかではなく、これはこの捉え方で見てほしい“と言う、すべてに通ずる“美への道案内“です。
人の一生が描ける世界観など、たかが知れています。
それよりも、多種多様な眼で捉えた美意識の在り方を、
そこにある素晴らしさに対して紹介することが、私の役目のような気がします。


鈴木伸二氏と神韻響くこの名刹の中で、毎日名樹達と過ごすうちに、捉え方など小さな事だなあ、とつくづく感じるのです。

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答えなど、きっと命尽きるまで出ないと思います。
それを追い求める事が大切なのだと思うのです。
そして、その後ろ姿を見て、また誰かが歩いてくれるだろうと思っています。

鈴木伸二氏・私・この先も自分の道を歩き続けるでしょう。
同じでないから良いのかも知れません。
お互いに自分に無いものを持つ友人がいる事こそが、有り難いと思える年になってしまいました。