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盆栽歴49年 盆栽家森前誠二がブログで綴る盆栽人の本音と 伝えたい日常の中の”心と技”


毎年恒例となっている、木村先生のアトリエでの、1月24日に行われる来春の国風盆栽展の選考出品樹の鉢替えが行われました。


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高弟、藤川氏、森山氏、弟子のアレッサ君、ハオ君、ツァオ君によって、
十数本の名樹が、培養鉢から、古渡り、中渡り、などの逸品鉢に植替えられました。
盆栽は、書いて名の通り、「盆(鉢)に栽(う)える」ものです。
鉢の調和とレベルによって、厳しい採点選考での点数が変わります。

植替え後には、丁寧な「貼り苔」が、弟子の方々によって行われます。
この苔の貼り方も、ただ貼れば良いのではなく、植え替えた事すらも判別出来ないような、
自然な“古色感“が大切だと、先生はお弟子さん達に指導されています。


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細部に至る細やかな目線、圧倒的な改作術の裏には、こんな“見えない技”も隠されているのです。
私の所の愛好家の盆栽も、合同扱いで8点ほど、ハオ君ツァオ君と共に、先生のアトリエで、審査の日まで見守られています。



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【夢にみた据付と飾り付けは、伊勢の神宮が紡いで下さった!】

伊予産名石『五十鈴川』・3代続く大家「如学庵」の蔵石として名高く、
私もこの道に入って様々な図録で、その湧き流れる渓流の姿は、若かりし頃の私の目にも強く残りました。
名園吉村香風園氏の大旦那として、昭和前期より活躍された家門。
蔵石のすべてが日本水石界を代表するものばかり。
初代が蒐集した刀剣は、『三条宗近・別名“三日月宗近”』を筆頭に、
国宝・重文・多く、その殆どを国立博物館に寄贈された事は、水石界ではあまり知られていません。(因みにその額約20億円!)

先日京都大徳寺の展覧を終えて、
数年来の念願だった『神宮』(伊勢神宮は通称で、ここだけは“神宮“と呼び、日本神社界の頂点の社)へ参拝しました。
その帰路、“名石五十鈴川が放出される“の報を頂き、師走の世知辛い世間の喧騒の中、
香風園氏の協力で、若き頃より夢にみた“五十鈴川“を扱わせて頂く機会を得ました。


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今回、三尺銅水盤への“据付け“と、新年の床飾りを設えました。


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清流の水音が聴こえるような景色、広々とした水盤の中に、五十鈴川は描いた通りの素晴らしい世界を見せてくれました。


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取り合せに、橋本雅邦の「富嶽図」


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控えめの掛物の寸法が、名石を映えさせてくれると思いました。
添えに青銅の三重塔。
お世話になった大家小泉薫先生の形見の品です。
コロナに振り回された一年、五十鈴川の神気漂う世界観が、病魔退散、邪気を祓ってくれますように。


冬至を迎え、ゆく歳を振り返る中、盆栽の床の間飾りに1番苦労する季節です。
色鮮やかな“秋景色“の記憶、その後に訪れる暮の静寂。
新年を前に“色“を抑えた“冬姿“を、席中に表現してみました。

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主木は五葉松の古樹。
盆栽界の歴史にその樹相を残す名樹。


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サバ状の幹は徐々に懸垂しながらも、雲間の景のように、枝々を配らせています。


配する掛軸は、大家横山大観の師匠筋でもあった、明治画壇の名筆、今尾景年の「寒中月」

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深々と降り始めた雪が、冬空の半月に映されて、寂たる世界を醸し出しています。


脇には、古谷石の古石。


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﨟たけた石肌は、百年を優に超える愛玩が創り出した古感。

凍てつく程の冷気の中、葉色を変えながらも、常盤の翠を湛える松。
あくまでも静かに降りゆく雪と中天の月。
五葉松の樹相と溶け合う“厳なる姿“を持つ古谷石。
余分な景色を省いた、“水墨世界“を、席中に醸し出した「師走の盆栽飾り」です。
“何処かに季節、されど過ぎぬよう”・・飾りの難しさとは、尽きぬものです。


【静寂の中に感じる「仏性」】

数々の名樹を揃えた『慶雲庵・大徳寺展』も終わり、すべての盆栽が搬出されました。
本来、来春の3月下旬まで、公開されずに盆栽達が届くのを待つ庭。
残された石柱立ち並ぶ庭は、静寂の刻となりました。

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展示されていた盆栽達がある時は、美しい庭の管理、盆栽の健康状態、そして切れ目なく訪れる来庭者の応対に追われて気がつきませんでしたが、
こうして生きとし生ける盆栽達が退場した今、ここにあった“彼ら“がどのような存在であったか?深く思うものがよぎりました。


先日、市内九条にある「東寺」正確には教王護国寺、空海が立てたこの名刹には「立体曼荼羅」と呼ばれる往時の仏教彫刻の名作が、
まるで大きな絵に描かれた「曼荼羅図」そのもののように、各種の仏像が荘厳な伽藍の中に鎮座していました。

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出典: https://toji.or.jp/smp/mandala/

圧倒的なその存在感は、初めて見る私も感動以外ありませんでした。主が去った盆栽庭園。
静寂の深夜、ひとりでこの庭に佇んだ時、庭内の石柱群を見て、“あの仏像群と同じだ“と感じるものがありました。
庭内28の石柱、そこにあった樹々は、私にとってまさに“生きた仏達“だったのです。


盆栽は何も語りません。


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人に命のすべてを委ねて、生きる為に自身の枝や半身を枯らし、生きゆくことの為に姿を変えていきます。
私には、彼らが仏の化身に見えてくるのです。私などよりも、ずっとずっと気高い、“空なる世界“に生きる仏に見えるのです。

仏性という言葉があります。
解釈は様々ですが、そのひとつに「すべての生き物には仏となる基が宿っている」とあります。
また、生きるものすべてが仏であると言う捉え方もあります。 


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私は仏教学はわかりませんが、盆栽達にはおのずと仏そのものがあると思いたいのです。
人の業や無知で、枝を切られ、幹を折られ、それでも刻をかけて“自ずと然り“つまり自然に生きていく。
私は盆栽の究極の世界観は、その仏性にあり、それと共鳴できる自分を得ることではないかと、今回の展覧で思ったのです。
まだまだ、感覚的にそう思っただけで、きちんとした文論には出来ません。
でも、私がやりたい“盆栽とは何なのか?“と言う命題の鍵が見つかったように思います。

来春3月、この庭には私の手掛けた盆栽達が立ち並びます。
彼らと日々対峙する事で、「盆栽と仏性」と言う世界観に少しずつ近づけたらと思います。
今も大徳寺には深夜の静寂の中、僧堂から読経や鐘の音が聴こえます。
ここは人にとっても、盆栽達にとっても、聖地なのかもしれません。


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【作風に求める盆栽への希求】

大徳寺で行われた『慶雲庵・大徳寺特別展』で、30年来の交流深い鈴木伸二氏と長い刻を共にする機会となりました。
お互いに、財団の大切な盆栽を預かる中、ここに選抜群を飾る事になり、庭内で日々盆栽達を見ている内に、思うものがありました。


鈴木伸二氏が手掛けて管理されている盆栽達は、樹の培養状態、完璧と言える程の枝先まで手入れの行届いた姿、技術的にも私より遥かに優れていると思います。

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方や、私が手掛ける樹達は、私の「盆栽観」と言うものを反映してか、時間と鋏で自然に仕上げてゆく感じで、互いの作風的な違いを感じます。

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お互いに歩いて来た道のりこそ違っても、四十数年、盆栽を人生の隣において来た道。
樹も共に生きる人によって、顕す表情が違うものなのだと痛感しました。


ただ、還暦を過ぎてこれからこの大徳寺と言う、歴史ある名刹の中に、盆栽庭園を預かる事になった身として感じるのは、
“これが1番正しい盆栽だ“と言うようなものは無いんだ!と思うことです。
絵画や音楽の世界でも、様々なジャンルがあります。ダビンチのようなルネサンスの世界、
琳派のジャパンモダンの美、ピカソに代表されるキュービズムや抽象的な美、
音楽もクラッシックから流行歌謡、アニメソング、世界に氾濫する“感性“と言う美意識は、人によって異なります。
盆栽も同じく、小品盆栽の愛らしさから、山採り大型古木の美まで、そのすべてが盆栽美です。
松柏・雑木・花物・皐月・山野草・その中にも、私と鈴木伸二氏の違いのように、微妙な捉え方の個性があります。

40代の血気盛んな頃は、“盆栽はこうでなければダメだ“と言うような自身の頑なな想いもありました。
しかし今、1番大切に思うのは、“何が良いかではなく、これはこの捉え方で見てほしい“と言う、すべてに通ずる“美への道案内“です。
人の一生が描ける世界観など、たかが知れています。
それよりも、多種多様な眼で捉えた美意識の在り方を、
そこにある素晴らしさに対して紹介することが、私の役目のような気がします。


鈴木伸二氏と神韻響くこの名刹の中で、毎日名樹達と過ごすうちに、捉え方など小さな事だなあ、とつくづく感じるのです。

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答えなど、きっと命尽きるまで出ないと思います。
それを追い求める事が大切なのだと思うのです。
そして、その後ろ姿を見て、また誰かが歩いてくれるだろうと思っています。

鈴木伸二氏・私・この先も自分の道を歩き続けるでしょう。
同じでないから良いのかも知れません。
お互いに自分に無いものを持つ友人がいる事こそが、有り難いと思える年になってしまいました。

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