【百日紅】
先日 40年来のお付き合いをさせて頂く 古老盆栽愛好家のお宅にお邪魔しました。
20代の銀座三越の盆栽店を任されていた頃に出会い、相手様も当時40代になったばかり。
盆栽水石の商売はもとより、様々なお客様と出会って、
先日 40年来のお付き合いをさせて頂く 古老盆栽愛好家のお宅にお邪魔しました。
20代の銀座三越の盆栽店を任されていた頃に出会い、相手様も当時40代になったばかり。
盆栽水石の商売はもとより、様々なお客様と出会って、
いろんな事を吸収したり、学んだりしたあの若かりし頃を良く知る数少ない方です。
お勤めを引かれる頃は、大企業の重役になられていましたが、趣味の世界、
お勤めを引かれる頃は、大企業の重役になられていましたが、趣味の世界、
そんな日本を背負う程の仕事の大役を担う方など、私にはおくびも見せずに、一愛好家として接して下さいました。
一線を引かれて、神奈川県の里山のような鄙びた農屋を買い取り、盆栽三昧の日々を過ごされる為に、修復をされ、
一線を引かれて、神奈川県の里山のような鄙びた農屋を買い取り、盆栽三昧の日々を過ごされる為に、修復をされ、
失われつつある日本の盆栽飾りの文化を中心に、哲学的な晴耕雨読の毎日を過ごされていらっしゃいます。
本来、奥様と老成の終の棲家とされたのですが、漸くその地に移る頃、奥様が病魔で他界。
免許証も持たない古老が、どうやってひとりで暮らされるのだろう?と、お預かりしていた盆栽の移動も当時は、ためらった程です。
“なに、ひとりでやれるようにやるよ”と、達観された言葉を頂くのみの古老。
あれから10余年、晩夏の暑気残る川沿いの小高い邸で、古老は穏やかなお顔で、私を迎えて下さいました。
本来、奥様と老成の終の棲家とされたのですが、漸くその地に移る頃、奥様が病魔で他界。
免許証も持たない古老が、どうやってひとりで暮らされるのだろう?と、お預かりしていた盆栽の移動も当時は、ためらった程です。
“なに、ひとりでやれるようにやるよ”と、達観された言葉を頂くのみの古老。
あれから10余年、晩夏の暑気残る川沿いの小高い邸で、古老は穏やかなお顔で、私を迎えて下さいました。
添えには 古老ご友人が作られ贈られた白鷺草。
けして “ひけらかす”わけでもなく、当たり前の飾りの中に、茶の湯ににも似た「客をもてなす」心遣いがにじみ出ていて、
相変わらずの「飾りの名手」だなあと、設えに頭を下げました。
ひとしきりの世間話の後、“森前君が来るので、懐かしい樹を気張らずに設えてみたよ”。
客間(本座敷)に入ると、細身の紅色の百日紅が 楚々と花を咲かせていました。
相変わらずの「飾りの名手」だなあと、設えに頭を下げました。
ひとしきりの世間話の後、“森前君が来るので、懐かしい樹を気張らずに設えてみたよ”。
客間(本座敷)に入ると、細身の紅色の百日紅が 楚々と花を咲かせていました。
取り合わせの掛物は、林 文塘 の筆による「驟雨に蝉」
名残の夏を静かにそして健気に生き、
命の謳歌をその花に託す百日紅、俄かの雨にひと夏の命の蝉が飛びゆく様。
脇床には 安倍川のくず屋石。
“見えぬ人影、過ぎゆく季節、万象の中で繰り返される命”。
“この樹を覚えているかい?”古老の呼びかけに、“そうか!あの時の樹”と思いました。
最近は 社員に普段の出入りを半分任せている方。
“この樹を覚えているかい?”古老の呼びかけに、“そうか!あの時の樹”と思いました。
最近は 社員に普段の出入りを半分任せている方。
銀座の店を苦労の末開店した時、まずはと思い、お世話させて頂いた百日紅でした。
“あの頃が懐かしいね”・・・この言葉の中に込められている古老の様々な想い、
“あの頃が懐かしいね”・・・この言葉の中に込められている古老の様々な想い、
私はどれだけのことができたのだろう、と有難くも不甲斐なさも感じる時でした。
人も時も止まりません。
人も時も止まりません。
60の年に京都大徳寺という場に盆栽庭園を挑む私。
ここからなにが私にできるものか?私自身もわかりません。
それでも古老が仰るように、“その日その日を懸命に生きることだよ。”
この言葉をそのまま自分の今におこうと思うひと時でした。
老成にはひとそれぞれの姿があると思います。盆栽も一本ずつ違います。
私も私らしい「明日」を生きようと思います。
老成にはひとそれぞれの姿があると思います。盆栽も一本ずつ違います。
私も私らしい「明日」を生きようと思います。